都合の良い論理をでっちあげる人間どもは愚か。

何年か前に出版された超ベストセラー『国家の品格』(藤原正彦、新潮社)は、僕に多くの機知を与えた。一つには、本書の一番の主張ともいえる、「論理では説明できないことがある。ましてや数学でさえもそうなのだから」という考え方。

 

僕は最近、よくこうしたことを考える。すなわち、「人間は、自分にとって都合の良い論理をでっちあげ、それを妄信する傾向がある」ということだ。例えば、就職活動中の今の私がまさにそうだが、新聞社と大手食品メーカーのどちらに就職するか選択を迫られている状況下において、恐らくどちらを選択しても、それらしい論理を立てて、「私はこうした素晴らしい未来を送ることができます」と説明することができるであろう。それはまあいい。ただ、考えねばならないのは、そうした「論理のスタート地点」が、どこにあるのか、ということである。「論理のスタート地点」が正しいものなのかを、きちんと見分けなくてはならないと僕は思うのである。それが間違っていれば、そこから建設される論理は、どれだけ立派なものであったとしても、つまるところ「でっち上げ」に過ぎないからだ。

 

こんな例を挙げてみる。私は英語が苦手なことがコンプレックスになっている。中学校から英語を習い始め、10年たった今も日常会話ひとつまともにできない。

そんな私だったが、以前『経営センスの論理』(楠木建、新潮社)を読んでこんな考え方に出会う。すなわち「内容がすっからかんの英語は意味がない。内容があっての英語だ」という考え方だ。つまり、現行の早期からの英語教育の論理が間違っているというのである。内容がしっかりしていれば、つたない英語力でも活躍できるというのである、とかれはいう。

 

私はこれを読み、そういうことだったのか、と思う。自分のコンプレックスをひた隠しにしてくれる素晴らしい論理を、「果たしてそうだろうか」と考える間をなくして無条件にそれを「妄信」するようになるわけだ。えてして私はそれまえコンプレックスに思っていた「英語ができない」ということを、コンプレックスに思わなくてもいいのだ、と考えるようになった。

★コンプレックスを、人間は、都合の良い論理で消し去ろうとする傾向があるということだ。

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僕のいまの就職活動をもう一度みつめ返して、論理のスタート地点となっている「コンプレックス」を見つけてみようと思った。