豊かな生き方について考える

われわれ現代人が欲している「豊かさ」とは何か。いろいろな考え方があるのだろうけど、少なくともこういうは言えそうである。人々が欲している豊かさとは、物質的な豊かさではなく、「心の豊かさ」であるーーーと。

 

数年前に大ベストセラーになった『里山資本主義』という本をご存じだろうか。この本は、現代の「豊かさ」は里山にこそ存在すると主張し、現代はびこっている資本主義の息苦しさから抜け出すことを推奨している。お金を稼ぐためだけに、毎日満員電車に揺られ、落ち着いてモノを考える余裕すらない生き方。果たして、これが豊かだと思いますか、と読者に問う。

 

『魂の出社』という本がある。朝日新聞に長年勤め、アフロの論説委員として名をはせていた著者が、満を持して退職をし、これまでの「豊かさ」とは180度違った「豊かさ」を、ひもじい暮らしから見出だしていく話である。

彼女は、朝日新聞論説委員をやっていただけあってかなりの高給取りで、それこそ資本主義社会における勝ち組とでもいおうか、経済的(物質的)な豊かさに身を浸してきた人物であった。しかし彼女は会社勤めという生き方に徐々に疑問を持つようになる。会社人間として出世競争にストレスを溜め、ゆったりと息をつく暇もない生活が果たして豊かな暮らしと言えるのかーーー。悩みぬいた末、彼女はいまの豊かな暮らしを捨てることにする。

 

彼女は縁があって四国の田舎に住むことになる。夫や子おらずの、一人暮らし。これまで稼いだお金で服などのモノを買うことに「幸せ」を感じてきた彼女。そうした暮らしは、しかし、田舎ではできない。彼女は、徐々に気づいていくことになる。「豊かさ」、いや、「幸せ」とでも言おうか、それらは意外と身近なところに転がっているものなのだということを。彼女が見つけた幸せの一つは「野菜の直売所で季節を感じること」だった。こんなことが幸せの要素になるのかーーー。

 

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まさに僕らは今、資本主義社会に生きている。人々はお金を稼ぐために一生懸命はたらき、汗水たらして溜めたお金を、仕事のストレスを発散するために使う生活。考えてみたらおかしい。豊かさという言葉は、資本主義社会には似合わないと思う。

 

よく僕は農村に行く。知り合いの農家さんのところに遊びに行くのだ。僕が毎度ながら現地で見るのは、「本当の豊かさ」だ。農村には、人々の笑顔がある。豊かな自然がある。温かい人がたくさんいる。みずみずしい野菜がある。

 

資本主義社会のなかで死にそうになっているサラリーマンを見ると思う。そんな必死にお金を稼がなくても、あなたの目指している「豊かな暮らし」はできるのにーーーーって。

 

 

 

 

 

都合の良い論理をでっちあげる人間どもは愚か。

何年か前に出版された超ベストセラー『国家の品格』(藤原正彦、新潮社)は、僕に多くの機知を与えた。一つには、本書の一番の主張ともいえる、「論理では説明できないことがある。ましてや数学でさえもそうなのだから」という考え方。

 

僕は最近、よくこうしたことを考える。すなわち、「人間は、自分にとって都合の良い論理をでっちあげ、それを妄信する傾向がある」ということだ。例えば、就職活動中の今の私がまさにそうだが、新聞社と大手食品メーカーのどちらに就職するか選択を迫られている状況下において、恐らくどちらを選択しても、それらしい論理を立てて、「私はこうした素晴らしい未来を送ることができます」と説明することができるであろう。それはまあいい。ただ、考えねばならないのは、そうした「論理のスタート地点」が、どこにあるのか、ということである。「論理のスタート地点」が正しいものなのかを、きちんと見分けなくてはならないと僕は思うのである。それが間違っていれば、そこから建設される論理は、どれだけ立派なものであったとしても、つまるところ「でっち上げ」に過ぎないからだ。

 

こんな例を挙げてみる。私は英語が苦手なことがコンプレックスになっている。中学校から英語を習い始め、10年たった今も日常会話ひとつまともにできない。

そんな私だったが、以前『経営センスの論理』(楠木建、新潮社)を読んでこんな考え方に出会う。すなわち「内容がすっからかんの英語は意味がない。内容があっての英語だ」という考え方だ。つまり、現行の早期からの英語教育の論理が間違っているというのである。内容がしっかりしていれば、つたない英語力でも活躍できるというのである、とかれはいう。

 

私はこれを読み、そういうことだったのか、と思う。自分のコンプレックスをひた隠しにしてくれる素晴らしい論理を、「果たしてそうだろうか」と考える間をなくして無条件にそれを「妄信」するようになるわけだ。えてして私はそれまえコンプレックスに思っていた「英語ができない」ということを、コンプレックスに思わなくてもいいのだ、と考えるようになった。

★コンプレックスを、人間は、都合の良い論理で消し去ろうとする傾向があるということだ。

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僕のいまの就職活動をもう一度みつめ返して、論理のスタート地点となっている「コンプレックス」を見つけてみようと思った。

 

 

 

内定イベントに参加。かわいい子がいなかった。

昨日、私が内々定をいただいている大手食品メーカーの、内々定者交流会というか、先輩との座談会みたいなイベントがあった。場所は東京の…まあそれはいっか。

 

内々定者交流会は、どの企業でも用意しているようで、私が内々定を貰っている会社はすべてこのイベントが予定されている。会社にとっては、内々定を学生に与えたとはいえ、自社に入社してくれるかはわからず(なぜなら現段階はあくまで内々定」であり、「内定」を出せる10月まで法的に拘束することはできないからだ)、会社としては何とか自社をアピールできる機会を設けたいのである。こうした内々定交流会は、しかし、会社をよく知りたいとの考えからの参加というよりも、可愛い女の子がいないかを見たいといった、くだらない目的のために参加されるものなのだが。同期にかわいい子がいるかいないか、割と死活問題ではある(笑)。それはまあね。

 

私が昨日参加した内々定者相談会は、ごく少数で行われ(何日も日程が用意されており、内々定者数を日にちで割るとどうしても少数になってしまうらしい)、内々定者は6人の参加だった。男子4名女子2名だ。かわいい子は、いなかった。まあね。

 

午後14時から行われたイベントは、16時まで続いた。最初の一時間は、厳かな部屋での先輩への質問会で、これは御想像のとおり面白いものではなかった。とくに参加者の僕以外の5人はすこぶる無口なタチで(よくも内々定をもらえたものだ)、僕以外あまり質問をしなかったので、どうしても質問のできる僕が場の空気を持たせなくてはならなかった。随分とつかれたものだ。

 

そのつまらぬ質問会の後、先輩社員2人(人事部1人、営業部1人)に連れられて近くの喫茶店に入った。人事の若い青年は、「先程の質問会のような肩ひじ張った質問ではなくて、もっと砕けた質問をしてくださいね」と言いながら、好きなドリンクをどうぞ、とメニュー表を渡してきた。そこそこの喫茶店だったのでメニューがどれも高かったが、飲み物代は会社が負担するから、と3回くらい先輩社員が言っていたから、僕は値段を見ずに昆布梅茶を頼んだ。みんなありきたりなコーヒーとカフェオレとかオレンジジュースとかだったから、皆不思議そうな目で僕を見てきた。梅昆布茶うまいんだってーと僕は言ったが、皆そんなことどうでもいいようだった。

 

先ほどの先輩質問会と大して変わらぬ雰囲気だったが(人事がいるとみなリラックスができないのだ)、用意され1時間は緩やかに過ぎさり、解散の時になった。ありがとうございました、と人事が僕たちに言い、こちらこそありがとうございました、と僕らが言った。学生6人は一つの塊になって駅まで歩き始めた。

 

その後駅に着くまでの間で、僕ら6人は仲良くなった(先ほどの2時間では3センチくらいしか距離を縮められなかったにも関わらず!)。先ほどまで品格を保とうとお互い同期にも関わらず敬語を使って話していたのだが、会社の人と別れた直後からタメ語になったのも大きい。すこぶる期待外れだったこのイベントをみなで笑い、でもでもこの会社いい会社なんだよねー、とみなでカバーした。そういうものだ。

 

僕は今内定を3つ持っており、もう一つ内定が手に入りそうな状況だ。これから入る会社を一つに絞っていくという苦しい展開を迎えることになる。正直なところ僕にはまだ決める勇気がなく、どこも入りたい思いがあって苦しんでいる。でも時間は止まらない。決心する勇気をもって、残りの数か月を過ごそうと思う。なんて

 

 

 

 

 

 

 

読書とは、「生(せい)」そのものである。

最近、三島由紀夫にはまっている。『潮騒』から三島由紀夫の世界に入り、『若サムライのため』、『不道徳教育講座』、『行動学入門』を一気に通過し、現在、彼の遺作とも言われる『豊饒の海』をいまは読んでいる。『豊饒の海』は四部作となっており、私が今読んでいるのは第二部である。

 

三島作品はむずかしい。時代的な影響もあるのだろうが、三島の悟りに満ちた世界を十分に堪能するには、あまりに私は能力に欠けているといわざるを得ず、正直なところ、ストーリーを追うことに私は必死で、細部にわたる三島世界を味わうことができていない。加えて、本書のテーマである「輪廻転生」に関しては、これまで私自身全く考えたことのない事柄であり、基本的な知識さえ覚束ない私には到底理解できないものなのだ。三島が到達した、地下に何千キロも掘り下げたときにしか現れない悟りの世界は、私のみならず多くの人が理解できぬ世界なのではないだろうか。本書を深く読める人物がいるのであれば、一度お目にかかりたいものだ。

 

さて、この世にはあまたの作家が、あまたのテーマで本を書き、図書館で、書店で、私たちは様々な本を手に取ることができる。多くの人は(特に年配者に多いのではないだろうか)、影響を受けた作家、あるいは本があるのではないだろうか。私の周りにもそうした人はいる。友人Kは哲学者アドラーに影響を与えられ、友人Mは作家・朝井リョウの『何者』に影響を受けたと言っている。それと三島由紀夫にも影響されたって人もいたっけ。かく言う私はというと、朝井リョウ宮本輝ブッツァーティ、斉藤孝、三島由紀夫に影響を受けている。それぞれ人生観を揺さぶらた作品があり、今も本棚にしっかりと入れているほどだ。

 

まあ、それはさておき、とにかく本というものは、我々の人生を変えてしまうほどの力があるということである。世には毒にも薬にもならない小説やら生活実用書やらは多数存在するものの、一方で誰かの役に立つ本も多い。人生の中でどれだけの本を読み、どれだけの「人生を変える本」に出会いるかが、大きなポイントになるのではないか。本を読むことは、あるいは「生きる」ということそのものなのかもしれないと思う今日この頃である。なんてね。

あなたへの手紙。

 

こんにちは。

現在就活中のYです。

22歳です。

私はいまとても良い気分です。

どうしてか分かりません。

さっき、ベビースターラーメン(チキン味)を食べたからかもしれません。

それは頬っぺたがおちてしまうほど美味しかったのです。

もしかしたら、ベビースターラーメンを食べる前に、コールドブリューを飲んだからかもしれません。

コールドブリューとは商品名です。

どこのコンビニにも売っているMt.RAUNIERの乳製品のことです。

甘くて、コーヒーとミルクが絶妙にあいまって、これもまた美味しかったのです。

1時間前くらいに飲み終わったのに、まだほんのちょっと口の中があまいの。

 

私はいま、大学の一号館という8階建ての授業棟のちょうど7階にいます。

この建物からは、東京の街が一望でき、それはそれは美しいのです。

私は授業のない暇な時間は毎度ここに来ます。

誰もいなくて静かで、うつくしい東京の街を独り占めできるこの空き教室に。

今日は天気が曇りで、東京の街全体が灰色になってしまっているけれど、

晴れた日なら、すんごくきれいなんですよ。

東に新宿と渋谷のチカチカした都会の街が見えて、反対方向にのどかな富士山の景色が見えるんです。

おもしろくないですか?

私はおもしろいと思います。

 

今は写真は撮れませんが、また、今度写真をのっけようと思います。

詰まらない投稿でごめんなさい。

書くことがないのです。

そして暇なのです。

それでは。

 

かしこ。

私はいま就活中。こんな時期に、ブログを始めた。

 私はいま就活中で、明らかにブログを始める時期としては不適切であることを知っている。しかし、どうしても今ブログを始めたくなったのだから仕方がない。ただでさえストレスが溜まりがちな就活期なのだから、ストレス解消には微少ながら役立つであろうとの考えで、だからブログをいま始めることを正当化しようと私は考えることにした。ブログの本来のあり方として、「ストレス解消ツール」としての使用は間違っているのかもしれぬ。内部に溜まった愚痴やら不満やらを吐き出す場所として、ブログ以外にも多くの場所がある。日記帳であったり、ワード文書であったり、あるいはTwitterFacebookといったSNSであったり。そんななかで、「なぜブログなのか」という問題は確かにある。ただ私はこの問題には答えるつもりはない。というよりも、まともな答えを用意していない。要するに答えられないわけだ。まあ、そんなくだらない話はいい。

 

 さて、私はいま就活中である。先ほども言ったとおりだ。就活中といっても、3月から始まった就活はもう終盤であって、真っ只中かと言われればそうではない。6月1日時点での内定保持率の調査では、大半の学生が1つ以上の内定を手にしているとされ、もう満足だと就活を終了した学生も少なくない。私の大学の幾人かの知人も、就活を終えて、溜まりになまったストレスを「とにかく遊び呆ける」という手段で発散し始めている。就活を続けている私のような学生にとっては目障りでしかないが、いつか自分も…と歯を食いしばって頑張っているのである。

 

 私はしかし、いつでも就活を終えることができる立場にある。つまり内定を持っているわけだ。それも3つ。某新聞社と某大手食品メーカーと某協同組合だ。某協同組合は興味はないが、前の2つは志望度が高い会社であり、正直なところ、この2つどちらかで将来を決めてしまったも心残りはない。記者をやりたいと思っている私には、その某新聞社は魅力的だし、加えてかなりの好待遇だ。ただ、募集段階から記者を志望できるわけではないので、新聞社に入っても記者になれるとは限らない。またもう一つの大手食品メーカーは、誰もがなじみのある魅力的な食品を製造している会社で、私もこの会社の商品のファンである。就活生の就職先としても人気を博しており、2016年度の就職競争倍率ランキングで、トップ50社にランクインしたほどだ。世間体も良く、恐らく安定性もあるに違いない。

 

 でもでも、私は就活を終えない。なぜなら、志望度の高い就職先がまだ選考中であるからだ(現在最終選考のご案内をいただいている)。その会社は出版社で、なかなか魅力的なのである。内定までもう少しだからこそ、やめるわけがない。でしょ?

 

 どうもすみません。全くプロットを考えずにだらだらと文章を書きつらねた挙句、ただの私の内定自慢になってしまった。パソコンのキーボードを叩いている間すこぶる気分がよく、図らずとも当初の目的、「ストレスを発散すること」は達成できてしまったようである。私は今、とてもすがすがしい気分だ(笑)。

 

 初投稿だし、誰もこのブログを読んでいないことは知っている。だからこそ、気持ちよく文章が書けるのである。ブログとしての使い方は間違っているのかもしれない。ただ、こんなブログでもいいのではないだろうか。少なくとも読者に対して気分を悪くさせたり、迷惑を掛けたりすることが無いのであれば。

 

 これからも、どうぞ当ブログを宜しくお願いいたします。著者Yより。